2011年10月31日

SNSは、自分を更に高みに、というのであれば積極的に使うべきだと思う。

〜織田信長がソーシャル・ネットワークを手にしたら〜

 儲けられるかどうか、でソーシャル・ネットワークを判断すると、大抵は失敗します。なぜなら、「使えるか、使えないか」と考えている時点で、すでに真価を見誤っているからです。

 織田信長は、真っ先に鉄砲の真価に気がついた戦国大名だと言われています。他の戦国大名が、「命中率は悪いし、撃つのに時間が掛かるし」と持て余しているうちに、大枚をはたいて3000挺の鉄砲隊を組織しました。「命中率が悪い」リスクには、《大部隊での一斉射撃》という戦術を、「撃つのに時間が掛かる」リスクには、3部隊が入れ替わりに撃つ《3段撃ち》という戦術で対応します。長篠の戦いで、ついに戦国最強と言われた武田の騎馬隊を打ち破る戦果を得るのは、ご存じの通りです(学説としては色々と異論が強いようですが、喩え話なので、大目に見てください。以下も歴史の記述については同様)。

 織田信長の成功は、「自分たちのやり方」に固執しなかった英断に要因があります。

 武田家は、騎馬隊による集団突撃に、絶対の自信を持っていました。武田家が怒濤の勢いで勢力を拡大しているあいだ、ずっと「騎馬隊による集団突撃」で絶大な戦果を上げてきたのですから、当然です。カリスマ君主であった信玄を失い、家運が傾いてきても、他のやり方を考えなかったのは、結果的には失敗でしたが、判断ミスを責めるのも酷なように思います。

 ともあれ武田家にとっては、「騎馬隊による集団突撃」は、アイデンティティでした。これを変えるなど、思いもよりません。だから鉄砲を前にしたとき、武田家の戦術にどう活かせるか? だけを考えたはずです。「使えるか、使えないか」と考え、結果、使えないという判断を下しました。

 しかし織田信長は違いました。信長は恐らく、次世代の兵器である鉄砲を前にして、こう考えたはずです。

 「鉄砲には、刀や槍とは比較にならない破壊力がある。どうにか活かせないものか?」
 信長にとって、思考の柱となったのは、「自分たちのやり方」ではなく、「鉄砲」のほうでした。新兵器の類い希なる《長所》を活かす方法だけを考え、そのためには、「自分たちのやり方」すら変えたのです。武田家ほどではなかったかもしれませんが、織田信長にだって「自分たちのやり方」はあったはずです。口で言うほど簡単ではありません。これは、まさに英断です。

〜織田信長がソーシャル・ネットワークを手にしたら〜

 さて、ソーシャル・ネットワークは、戦国時代に登場した鉄砲のごとき、驚異の新兵器です。織田信長がソーシャル・ネットワークを手にしたら、どうでしょう? きっと、その可能性に瞠目して、「どうやって活用しようか?」と興奮するはずです。

 君主として、まず目を付けるのは、人事面でしょうか。SNSでの発言を見ていれば、家臣の能力や資質など簡単に知れます。使えない重役はさっさとクビにして、雑兵だろうが農民だろうが、有能な人間を抜擢するでしょう。仕事への愚痴や不満をぶちまける(実名SNSの意味を分かっていない)愚か者は、容赦なく斬首です。他家からのヘッドハンティングや、浪人の登用も、積極的に行うに違いありません。

次に、透明性や伝播力に着目するかもしれません。論功行賞や懲罰は、SNS上でも発信するでしょう。成功の具体例をシェアし、家臣の成長をうながします。困ったことが起きれば「誰か、いい案ないか?」と呼び掛け、真っ先に秀吉が「任せてください。ただ、職人がいないんです」と名乗り出るでしょう。すると同盟関係にある徳川家の何某が「ああ、それなら、腕のいい知り合いがいますよ」と応じます。

 さらに、効率化。広報はメールを使用し、軍議はオンライン化するでしょう(奇襲作戦はTwitterで指示するかもしれません)。部隊事にSNSでグループを作成するよう指示し、連携を高めさせます。

 恐らく最終的には、農民との関係性に変革をもたらすに違いありません。ソーシャル・ネットワークが普及すれば、農民にですら発信力を持つ者が現れます。「年貢を納めろ」→「はい、わかりました」という一方的な圧政では、うまく行かなくなります。信長は、織田家のブランディングに力を入れるでしょう。

 「足利家のような伝統はないし、上杉家のような強力な軍隊もない。だが織田家は、誰にでも等しくチャンスが訪れる国を創る。年貢を沢山納めれば優遇するし、合理的でない慣習は即座に廃止する。能力のある者には権限を与え、人々の暮らしを良く変革した者は表彰する。Twitterで@odanobunaga宛てに呟いてくれれば、すぐに私に伝わる。どんどんやりなさい」と。

 「こうやる」と決めたら、信長は徹底するはずです。ビジョンを提示し、一貫性のある発言・行動を示す信長に、農民たちはどんどん織田家のファンになっていきます。あるときを境に、ファン層は爆発的に拡大し、織田家の国力は急激に高まります。

〜ソーシャル・ネットワークの収益構造など、どうでもいいような問題〜

 ソーシャル・ネットワークを前にすると、すぐに収益構造がどうのこうの、と話が向かう風潮に、私は強烈な違和感を覚えます。利益に直結しなければ、大半の企業は食指を動かさない現実があるわけで、仕方がない部分はあるでしょう。しかし、ソーシャル・ネットワークをお金を稼ぐ手段と捉えているうちは、決して真価に気づくことはありません。どうすれば儲けられるのか、というのは、言ってみれば枝葉の問題です。揺るぎない幹が存在しないのに、枝をどう伸ばすかを議論するのは、全くナンセンスです。

 インターネットの恩恵は、いたってシンプルです。相手との距離を無視して、誰とでもやり取りできる。個人でも発信力が持てる。ほとんど無尽蔵に記録でき、いつでも参照できる。そこに人と人の関係性が持ち込まれたのが、ソーシャル・ネットワークです。一言で恩恵を言い表すとすれば、物理的な制約を取っ払ったということ。今まで、顔を突き合わせていなければできなかったことが、いや、顔を突き合わせていてもできなかったことが、インターネット上でできるようになりました。ほとんど無限大といってもいいくらいに、世界は広がったのです。

 まず、世界が変わったのだと認識しなければなりません。その上で、明確なビジョンが必要です。ソーシャル・ネットワークがもたらした(あるいは、これからもたらされる)新しい世界で、自分の会社をどういう姿にしたいのか。人々にどんな利益を提供したいのか。誰もが自然と「そりゃ、いいじゃないか!」と言ってくれる利便性を生み出せれば、収益は自然とついてきます。

 逆に、ビジョンを示せなければ……鉄砲を持て余した武田家と同様、後進に追い越され、消えゆくほかはありませんよね。
 介護の世界でもここ1、2年でいろんな人々との距離が狭まっていく姿を目の当たりにしています。それこそNET、と言う世界を介してです。

 以前もんじゅの時にも話しましたが、これまでの介護従事者は事業所毎の存在であり、確かに研修とかでの出合いはあるにせよ、それから前に進むという事はなかなか無かったわけです。

 それがいまやどうか?

 鹿児島だけじゃない、全国の介護従事者とのつながりができ(笑福会やもんじゅ、日本うひゃぁ党など)、お互いの情報を共有する事が出来るようになっている。

 介護と言う職種自体が法律でがんじがらめになっている現在、逆に自由に従事者の交流が出来る様になった、しかも立場すら超え、立場が逆でも知りたい事を気軽に聞きあえる。情報の共有化ができ、それで更に自分のレベルアップに繋がる、という事であるならばSNSはどんどん活用すべきであると思います。鉄砲どころじゃない、戦国時代にM-16で攻撃する、ぐらい破壊力があるから。

 でも、鹿児島県の介護事業と言う業種に於いては...

 それこそこういったことについては、鹿児島三大法人やそのお偉いさん方は真っ先に飛びつかなきゃいかんと思うんですよね。でも全く動きは無い。最もそういう偉い人の所にはしっかり情報が舞い込むようになっているから必要ないのだろうけど、それでもなぁ...。うちなんか鹿児島県で一番行政に嫌われている介護事業所だぜ。そこの職員がこれだけやっているのにねぇ。それともそういったSNSに参加しないように、とでもお達しが出ているのかな?

 あとお偉いさんが勘違いしているのは、「高齢者はネットを使わないからネット対策は何も必要ない」という言葉。これは某所で本当に聞いた事のある話なんですが。

 え〜と、認知症のある高齢者は確かにインターネットは使えないよね。でもその家族は如何なの?PRすべきは本人だけじゃない。家族もその一つだし、気軽に他者と交流できる、と言う意味ではWebサイトだけでなく、SNSにもどんどん打って出るべし。ただ、個人情報保護法はしっかり頭に入れてね、と言う前提は有りますけどね。でないと、ここでいわれている偉いだけであとは何にもない武田の騎馬隊になってしまう。

 金儲け云々はねぇ...SNSでの人脈作りと情報共有が優先で、お金は後から付いてくるもの、じゃ無いんでしょうか?SNS=金儲け、と簡単にイコールで結びつけるのは、「この片マヒの利用者が歩行リハビリを経て最終的にはオリンピック陸上100mで金メダルを取る」と言うようなリハビリ計画ぐらい無謀だ、と思うんですよね。こういうSNSは楽しんで使って、お互い「いいね」とかRTで情報や感情を共有して...が最初だと思うんですよね。いや、Facebookの各種セミナーを否定している訳では無いんですが。

 ここで改めて。

 毎日Facebookやtwitterで挨拶をしたり、おいらのアホな書き込みにリアクションを取ってくれたりする皆様には感謝します。ネットだけではなくリアルで出会えたこと方もいらっしゃいますしね。そして、これから先も宜しくお願いしますね。

 あ、実はそんな中に、SNSを騎馬隊以前の竹やり程度にしか使えない人(悪口しかかけなかったり、他人をひっかけていつまでも粘着したり...)もいるんだけど、それは又別問題だし、数年後あいつら全員自己嫌悪に陥ってしまうか、公の場で裁かれているかなので。
 ただ、そういう輩はSNSの使い方自体を間違ってます。他人に共有されもしない、楽しくも笑えもしない情報を流すのに何の意味があるのか...そんな人もいるんですよね。

 大いなるネット資産の無駄遣いはやめたほうがいいんじゃない?福岡の専門学校の先生に福井のレイシストに江戸川の公務員に八戸のSEに阿久根出身の人事部長さんたち?少しは前向きになれるようなつぶやきでもすればいいんだけどね...。

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posted by y-burn at 06:40| 鹿児島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | PC関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大半の福祉施設も「名ばかり合議制」の牢獄の中なんじゃ無いかな?

〜「名ばかり合議制」が会社を潰す〜

・異論、反論が怖い上司ほど「1対1」を避ける


社長:「…このような理由で、基幹システムの一部リニューアルを行うことにした。リニューアルにかかる期間は7カ月。費用は7600万。システム本部長を中心に検討をしてきたが…。何か意見があるか」

全取締役:「…」

社長:「じゃあ、全員から承認を得たということで、いいね」

取締役A:「ええ」

社長:「次に来期の組織編成に関してなんだが、配布した資料の通りにしたい。それぞれの部門長とは話し合ってるんだが、誰か反対の人は、いるかな」

全取締役:「…」

社長:「じゃあ、全員から承認を得たということで、いいね」

取締役A:「はぁ」

社長:「それじゃあ、次に…」

専務取締役:「社長、シンガポールの件は」

社長:「ああ、そうだった。去年から専務とアジア進出についていろいろ議論を重ねてきて、来年の春ごろからシンガポールに支店を出そうと考えてるんだが、それで…。(中略)反対の人、いるかな」

全取締役:「…」

社長:「じゃあ、全員から承認を得たということで、いいね」

取締役A:「異議ありません」


〜「集団思考」が正しい合意形成を阻む〜


 最近、東証1部上場企業で、創業者の孫である会長が、グループ企業から84億円を個人名義で借り入れ、約50億円が未返済で使途不明という報道があった。そのうち約23億円分についての決定過程は、取締役会の議事録にも残っているという。

 上場企業で取締役会を経ずにカネが流れているのは社会的に大きな問題だが、取締役会を経た上でそんなカネが融資されているのも、社内的に大きな問題である。取締役会が全く役割を果たしていないではないか。

 けれどもそれが「建前の正論」でしかないことは、誰もが何となく分かっている。会議で取締役が会長の個人融資に対して意見を言うことなど、できるわけがないだろう、と。
 そもそも会議が多い会社は「合議制」が根づいている。責任ある立場の者たちが集まり、合議によって意思決定することを「合議制」という。

 聞こえはいいが、実際には「集団思考」と呼ばれる問題が発生して、正しい合意形成が行われないことが多々ある。均等に発言する機会が乏しく、リーダーの発言力が強い場合に、集団同調性バイアスが働きやすくなるのだ。

 「誰か意見はあるかな…。誰もないのか…。じゃぁ、次の議題にいっていいかな」

 主催者は、初めから意見が出るとは思っておらず、示し合わせたように議事を進行させる。会議が始まる前に、主催者は議事に関連するキーマンと既に話し合っているから、異を唱える者など出てくることはないと信じている。

 まさに会議が「通過儀礼」になっているのだ。これではコーポレート・ガバナンスが機能するはずがない。


〜意見を出させない卑劣なテクニックも〜


 確かに会議がスタートする前に、関係者によってある程度の調査、分析、吟味が終了していてしかるべきだ。とはいえ「合議制」によって正しい意思決定をし、ガバナンスを支えるためには、会議参加者が意思決定に必要な材料に目を通し、理解し、正確な判断をするべき「時間」が必要だ。

 そして、すべての参加者が手元にある材料のみで物事を見極めることは困難であるため、当然のことながら、質問や意見を述べる機会が公平に与えられなければならない。


〜意見を出せるような環境づくりも不可欠だ。〜


 ところが「名ばかり合議制」の会社は、資料の作り方が「雑」だ。前回書いた通り、会議資料を見れば、その企業のマネジメントレベルが透けて見える。

 どうせ誰もまともに資料を見て、正しい意思決定をしようとしないと分かっていると、平気で中途半端な資料を作る者が増える。分かりづらい資料を作って意見を出しにくくさせたり、主催者の退出時間をあらかじめ指し示しておき、議事進行をスピーディーに実施しなければならないという雰囲気を作って、意見を出させないという卑劣なテクニックを使う者もいる。いずれにしても全般的に会議運営が粗い。

 集団同調性バイアスがかかっている状態では、意見を出すのが難しいものだ。何か引っかかるものがあったとしても、意見や質問を返すタイミングを失い、「門外漢の私が意見を言っても、何を言われるか分からないし…」とか、「確かこの前も、誰かが反論したら徹底的にやり込められてたし…」と遠慮してしまい、口をつぐむ。

 数年前、あるクライアントの営業部長が、「会議で部下が全然意見を出さない。まるでやる気が感じられないがどう思いますか」と私に相談するので、若手を促して会議で意見を言ってもらったことがある。


〜ちょ、ちょっと待て…〜


営業部長:「休眠の顧客開拓をするために、今月から1人当たり20件は当たってほしい。何か意見はあるか」

部下A:「休眠の顧客開拓以前に、新規のお客様回りを強化すべきだと考えます」

部下B:「エリアごとに休眠顧客の数が違いますので、一律で20件はおかしいのではないでしょうか」

部下C:「私は既存のお客様の深耕開拓が先だと思いますので、既存顧客へのアプローチを私は30件でロックします」

営業部長:「ちょ、ちょっと待て…」

部下D:「先月、販促用のチラシを作成したばかりなので新規開拓を継続してやるべきと思います」

部下E:「私も休眠顧客開拓が必要と思いますが、20件は多いので10件でいいでしょうか」
 
営業部長:「おいおい、何を言い出したんだ、お前ら…」

部下A:「E君、20件が多いから10件というのはどうかな」

部下C:「私は30件やりますが、Bさんの意見には賛成です。一律20件はおかしいかな、と」

部下B:「確かにAさんやDさんの言う通り新規開拓をまだ諦めたらいけませんね」

営業部長:「ちょっと待てぇ!」


〜長々と持論を話したい上司が狙う「1対N」〜


 「意見を出せ」と言われ、部下たちが意見を言い出したら、この営業部長は喜ぶどころか、みるみる不機嫌になってしまった。そして最後はキレたのだ。

 「お前ら、好き勝手言いやがって。俺がなんで休眠顧客開拓が必要だと言ったのか、本当に分かってんのか! そんなに俺の言うことが聞けないのか!」

 結局、意見が欲しいと言っても、彼は反対意見が欲しかったわけではないのだ。

 「そうですね、部長のおっしゃる通りです。いやぁ、さすがですね部長」という承認と賞賛との言葉が欲しかっただけなのだ。

 そもそも会議で、長々と持論を話したい上司というのは、「1対1」を避けて「1対N」のコミュニケーションを狙っている。会議という場では、自由に反論しにくいことを分かってやっているのだ。彼らはすなわち「1対1」のコミュニケーションが苦手で、あるいは無意識のうちに「1対1」に恐れのようなものを感じている場合が多いのである。

 例えば部下と「1対1」で対峙したとき、自分より頭が良く弁が立つ部下に反論されると言い返せない。不満ばかり言う部下に対して、どう切り返して意欲を高めていいのか分からない。何を考えているのか分からない若い世代の部下に対して、どう話をしてマネジメントすればいいのか分からない。

 「1対1」コミュニケーションでは、相手のコミュニケーションペースに沿っていくペーシングが大切だ。相手にとって好ましいスピードや、分かりやすい言葉などを選んで話す必要がある。けれども、これができないと「うまく伝わらない、分かり合えない、ということだけが分かって」終わる。「あいつと話すのは難しいなぁ」という失敗した感覚を持つことになる。

 これが会議であったらどうだろう。

「1対Nのコミュニケーション」ならば、N人を前に勝手に持論を繰り広げることができる。相手のことなど気にせず、相手のコミュニケーションパターンにあわせることなく、自分の話したいように話すことができる。全員に平等に同じ情報を伝えたい、全員で討議したい、などと言いつつ、結局は自分が気持ちよく話ができる場として会議を利用している場合も少なくないのだ。

 上司のコミュニケーション能力の有無や技術の低さが問題になることがあるが、最初から恐れてぶつかることもなしに、テクニックは関係ないだろう、と思う。

 職場で言って聞かせてもいない。会議で話を一方的に投げているだけで、職場に戻ってからのフォローもない。コーチングの勉強をしたり、リーダーシップの本も読んだりするけれど、表面的な必要最低限の会話しか部下とはしないものだから生かす場もない。知識は増えていくから「あいつのコミュニケーションパターンは○○タイプで」と分析して笑っているだけ。

 それが会議をやたらと行う管理職に多いパターンではないだろうか。

〜会議を減らせば「報・連・相」が増える〜

 このコラムを通じて私は脱会議、すなわち「会議の『数』、会議の『時間』、会議の『参加者』をそれぞれ2分の1に削減し、『会議総コスト』を90%削減させる」ことを提唱し続けている。

 ここまで会議のムダについて、その削減の方法について、またPDCAサイクルの回し方についてなどを示してきたが、「脱会議を進める効用」はそれだけではない。職場でのコミュニケーションのパターンが変わるのだ。

 私のクライアントで、脱会議を進めてきた企業からの声で一番多いのは、次のようなものだ。

 「報・連・相(ほうれんそう)が増えて、以前よりも部下の状況が把握できます」
 「上司と部下との1対1コミュニケーションが増えて、職場の雰囲気がよくなってきました」

 これはまさに「断捨離」と同じ考え方だ。モノに与えてしまった空間とエネルギーを取り戻すことで、モノへの執着がなくなり、そこで生きる人たちへの愛着が自然と増していく。

 「会議」をやめると、自然発生的にコミュニケーションは増える。何という皮肉だろう。現場が見えない、部下が何を考えているか分からないと嘆き、会議を増やし、資料を多く作らせると、ますます真のコミュニケーションは減っていくのだから。

 部下からの「報・連・相」を増やすためには、「『十割部下』に会議は無用」で書いた通り、PDCAサイクルを使い「期限とノルマ」を設定してロックしてしまうことだ。

 その計画をやりきる方法は2つだけしかない。自分1人でやりきるか、誰かにやり方を相談しながらやりきるか。現状よりも高いレベルで「期限とノルマ」が設定してあれば、自然と報・連・相をしながら進めていくしかなくなるのだ。


〜部下を叱っても相談は増えない〜


部下:「本部長、先日の資料、ここまでできたのですが1度ご確認いただけますか。期限は2日後ですが、明日は出張が入っていますので、今日中にメドをつけておきたいんです」

本部長:「ええっと…。この不良品の発生率と、価格変動との関係性が分かるグラフがあるともっといいな。あとはいいよ」

部下:「ありがとうございます。修正しておきます」

本部長:「そういえば、ついでだけど、新しいラインが稼動したら1度勉強会をすることにした。詳しいことはグループウェアの掲示板を見ておいてくれ」

部下:「かしこまりました。この後すぐにチェックします」

 組織内コミュニケーションの8割は、「部下 → 上司」という方向でなければならない。要するに報・連・相である。

 しかし、「日ごろから言ってるだろう。『報・連・相』をしろって! 『ほう・れん・そう』だよ。『ほう・れん・そう』!」と「上司 → 部下」というベクトルで話をしても、効力はない。

 特に「相談」は、上司から言われたからと儀式的にやるものではなく、内的動機づけに基づいた行動である。部下を叱れば部下から相談が増える、わけがない。

 当初は、前向きな内的動機ではないかもしれない。脱会議を進めてPDCAをきちんと回すようになると、「次の会議で、できなかった言い訳を何となく伝えておけばいいか」ということがなくなるため、渋々、上司に報・連・相をし始める。最初はそれでいいと思う。
 けれども1対1のコミュニケーションを取り始めると、結局その方が心地よいし、仕事もスムーズに進むことが分かるはずなのだ。

 そのような段階を経て、何を報告して、何を相談すればいいのか。次第に部下も分かるようになっていく。


〜部下からの建設的な意見、交換条件〜


 ところで「『十割部下』に会議は無用」で、行動計画をロックし、途中で変更を許すべきでないと書いた。

 しかし、「このやり方は厳しすぎる。行動計画と言ったって、その時々でいろいろと条件があるはずだし、あんまり計画に縛りつけてしまうとストレスでうつ病になってしまうだろう」などといった、「行動はロックして絶対達成」という考え方に反対する意見やコメントを多数いただいた。

 しかし、極論を持ち出したらキリがないと私は思っている。自分で設定した行動計画をやりきらせれば「うつ病」になったり「過労死」したりするのか。自分で宣言したことは「やり切る」のだという組織風土を作ってしまえば、やれもしないのにコミットはしなくなるという別の効用もあるのだ。

 つまり、「来月から、これをやっていこう」と上司から言われ、何も意見も出さずに黙っていると、そこで「合意」したことと見なされる。「合意」した以上はコミットしたことと同じだ。絶対にやり切らなければならなくなる。

 「絶対達成」という組織風土が根づいていれば、黙ってはいられなくなるものだ。上司の好き勝手に言わせておくわけにはいかない。

 「課長のおっしゃることはよく分かります。しかし通常業務も増えていますので、今月はここまでにさせていただけませんか。それなら必ずやり切りますから」

 このように、部下からの建設的な意見、交換条件も出てくるだろう。その上で話し合えばいいのだ。


〜職場というのは、たこ焼きと一緒〜


 会議中に意見を出さないのは、会議主催者の言う通りにやり切らなくても許されるという土壌があるからだ。だから、会議中に下を向き、意見も出さずに黙って過ごしていればそれで済むと考えている部下がいる。

 会議漬けの中間管理職は、幹部との会議ではただの「イエスマン」だ。というか、「イエス」さえも言わせてもらえないことも多いだろうから「イエスマン未満」と言っても差し支えない。幹部には何も楯突かず、ただジッと会議室で座っているだけ。それが会議のあり方だと勘違いしているので、自分の部下に対しても同じやり方でしかコミュニケーションをしない。

 現場の担当者にも長時間会議を強い、上から無理難題を押しつけて振り回す。さらに日常的な職場で部下が困っていても、部下との「1対1」のコミュニケーションをしない。会議漬けなので時間がないなどと言うが、本当は部下との「1対1」のコミュニケーションをとるのが嫌なのである。

 それで現場がうまく回らないと、ほかの役職者と一杯飲みながら「最近の若者はしょうがないですな」「当事者意識がないんですよ」「全く私たちの時代とは変わりましたな」などと愚痴を言うだけ。部下と面と向かって会話もせず放置する。そんな職場が社員をダメにするのだ。

 「計画は絶対達成! などと言ったらあなた、私の部下は萎縮しちゃって明日から出社拒否になっちゃいますよ。最近の若い人はストレスに弱いんですから」

 こう言う管理職こそストレスに弱いのである。部下の反応が怖くて、とても指示徹底ができない。まともに目を見てコミュニケーションが取れないのだから。

 職場というのは、たこ焼きと一緒。たこ焼きは、外はカリッと、中はトロッとしているのが一番おいしい。「期限とノルマ」を守らせるというところはカリッと厳しく、けれどもそのプロセスは心地よく。会議を圧倒的に減らし、時間を作って、部下との「1対1」のコミュニケーションをまず増やすことが先決だ。

〜リソースを別のところへ割いてみよう〜

 繰り返すが、まず会議を減らすのだ。

 多くの会議中毒者が、会議に異常なほどエネルギーを注ぎすぎている。顧客のことなどまるで考えず、どのように会議を乗り切るか、会議資料をどう整えるか、そればかりを考えている。会議のためのコミュニケーション、会議のためのメール処理、会議のための出張、会議のための研修…。

 会議に配分するエネルギー、リソースを別のところへ割いてみよう。

 毎日、部下に関心を持って接しよう。部下の表情を観察しよう。悩んではいないか。仕事に面白みを感じているか。家庭はどうだろうか。子育てで大変か。結婚してから少し老けたな。家から弁当を持ってくる日が増えたな。金曜日は早く帰るんだな。時計が変わったな。携帯のストラップに子供の写真が入ってるな…。最近、少し痩せたんじゃないか…。子供が生まれたら、世話で大変だろう。俺の時も夜泣きがひどかった。仕事も立て込んでいるが早く帰宅してほしい。そういえば親が病弱だと聞いた。東北で農業をしているんじゃなかったか。震災の後も連絡をしているだろうか。たまには休みを取って実家へ戻ったらどうだ。時間を作って孫の顔を見せてやれ…。

 どんな小さなことでもいい。部下の変化を感じているか。そんな時間はない、いちいちカマッてられるかなどと言い訳せずに、部下と信頼関係をつくるための接点を毎日持っているか。

 部下とのコミュニケーションをどうすればいいか、などと考えず、まずは脱会議経営を目指してほしい。会議室に押し込められた負のエネルギーが開放されれば、自然とある程度のレベルまでは風通しがよくなっていくのだから。そう信じてほしい。

 次回は「会議とストレスの関係性」について考えていきたい。ここ数年、新種のうつ病が増えているそうだが、会議中毒者の中で広がっている「会議うつ」について解説したい。社員を無用なストレスから解放せよ! 脱会議を進めるもうひとつの効用である。


 結構長い文章ですが。

 これは営業関係などを例にとって話されているようですけど、最初読んで思ったのは、「うわ〜、これ今まで働いてきた福祉事業所全部に同じ事言えるわ〜」です。

 此処からは福祉法人や事業所の悪口にも繋がるのかもしれませんが、ま、言ってしまいます。

 古くからの社会福祉法人や医療法人に言える事ですが、このような伝達や会議と言うのは、熱心にやっている所も多いと思います。しかしその内容はこの文章の最初にあるまさしくトップダウンで会議参加者は中々意見の言えない、何だか訳分からん状態に終始する事が結構多かったりします。でもって自分は毎回一言多いが故に、トップダウンの会議で余計な事を言ってしまい、「空気が読めない」とか言われる事もあるんですが...。

 そういう意味では以前いた某施設は凄かった。施設長が普通に入所者と一緒にいるし、職員と普通にお茶飲んでいろんな話をして、職員の要望をしっかり聞いてくれたし又逆に言われた事は守ろう、と思える雰囲気作りをしてましたね。たぶんそういった事は施設長は考えてなくて自然にやっていたのか、それとも知っていてやっていたのか...?

 会議と称して、ただのトップダウンの意見を伝えるだけなら、それは会議とは言いません。それは「申し送り」または「申し合わせ」ですよね?更に言うのであれば、この会議、と言う名の申し送りの間、利用者はいったいどうしているんでしょうか?以前、「この会議の間に重篤な事故、とかあったら誰がどう責任を?」と言う話をしたら、さすがに管理側は何も言えませんでしたけどね。

 これがまともに意見を闘わせる会議であるのなら、何の文句も有りません。ただ、「会議」と言う「行事」があること、そこで利用者や客を放って置く時間を作ることが、果たしてサービス業としていかがなものか?そう思うんです。

 普段の職員同士のコミュニケーションを密に(馴れ合い、と言う意味ではだめですが)し、会議は必要最小限で短く終わらせる。でないと競争し合っている業界は勿論、福祉の世界でも通用しなくなる日は近いのでは無いか、と思われます。いや、もうこれが日常化して駄目になっている例も有りますよね。今の地方議会なんか最たるもんじゃなくて?

 無いとは思うけど、もし自分が人の上に立つのなら、ここに書いてあることは充分注意して行きたいな、と思いますよ。 
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posted by y-burn at 06:33| 鹿児島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の仕事のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

鹿児島哲学カフェに参加しました。2回目だけどね。

 古瀬先生が参加されていたり、またFacebookでのお友達の能瀬くんが主催されていたり、と言う事も有り、今回10/20、第6回鹿児島哲学カフェに参加させていただきました。

 実は8月にも参加はしているのだけど、このときはまだ一回目でどういうものか訳わかんない面もあったのであえて感想とかを書きませんでしたが、今回はやってみようかな、と(実はアンケートの回答でもある)。

 中央駅西口のカフェ、プロントでの開催。このあたりは駐車場の値段も天文館に比べて安いのが良いんだよね。

 今回のテーマは「仕事」。仕事は楽しいものか、はたまた苦労すべきものか、と言うテーマで1時間半の話を全員でやって行きます。ただし、このカフェでは結論が出たりしないし、お互いの発言で攻撃しあうわけでもない。自由に自分の感性でテーマに沿ったことを話していくことになっております。うん、そういう意味では「結論出せ」とか「お前はケアダメだ」とか抜かしやがるtwitterや2chの輩どもとは全然違いますわね。また、別の記事で書くけど上司や行政が既に回答を持っていて意見を出さないでしゃんしゃんきめていく会議や議会とも違うわけ。これは大きな特徴だと思います。

 今回の参加者についての自己紹介もあったんですが、総合的に「サービス業」、医療福祉関係や飲食のプロデュースをしている方、NPO法人の職員さんや学校の先生など、対人職の方も多かったのも今回の特徴なのかな、とも思ったり。

 前回の「豊かさ」と言うテーマと違い、割と具体的な内容であった為か、結構エキサイトした感は有りましたし、いろんな方向に話が飛ぶ飛ぶ。一時期付いていくのがやっとだった状況も有りましたね。職業倫理や「やりがい」の定義、果てはTPPで医療福祉の世界が変わりかねない、まで話がすっ飛んでしまったり...。

 まとめとしては、能勢くんのサイトや哲学カフェのサイトでやられると思うので(ある意味逃げ?)、ここでは哲学カフェで話したこと+α、と言う形で個人的に持っている仕事観を書いてみようかな、と。

 大学在学中は介護の仕事をする、とかまったく考えてなかった(なんもなかったらたぶん東京で普通に中小企業のサラリーマンかな...今頃)し、大学を離れて本当に目指していたのが鍼灸師だったこともあったので、その滑りどめというか流れというか、バブル崩壊で求職も寂しいものがあるから取り合えず手に職を点ける、と言う意味で介護福祉士の養成学校に入って介護福祉士資格取得して事業所転々としつつ今に至るわけですが、その間に「つまんねーな、この仕事」「いやだな〜」と思った事は数多にあるし、現に一時期パソコン教師やWeb作成を生業にしようとしていた時期も有ります。最も今はそういう事を考えなくなった、といったら嘘になるかも知れないけど、前ほどではなくなりましたね。

 今の仕事楽しいか?と聞かれると「楽しまないとやってらんない」と答えます。これは介護の仕事に限らず対人サービス業全てそうなんでしょうけど、サービスを与える側の心の動きはサービスを受ける側に、差はあれど移るんですよね。具体的には余り元気のない顔で職場に来ると、「どうしたのね?なんかあったのね?」と聞かれることが有ります。利用者に不安感を植え付ける事は我々の業界あってはならんことの一つでもあるわけで、私的な余計な事で不安感を与えるわけには行かない。それもあって出来るだけ職場では明るく、声を大きく、と努めてはいます(良くうるさい、とも同僚に言われるんですけどね)。

 それと、大事だと思う事が一つ。「自分だけが他と突出した何かを持つ事が出来るか、又見つけることが出来るか?」は仕事にとって大きな鍵になると思います。具体的に言えば、会社や事業所の中で「このことならあの人に聞かなきゃ解らないから」とか、「あの人に任せれば大丈夫だ」と言う様なものを身に着けること。

 どんな仕事でも最低限こなしていれば合格、と言うラインはあると思うんですよ。でもそれを毎日こなしているだけでは面白くもなんともないわけで、自分の仕事で常に考えているのは、「+αは何なんだろう」と考え続る、という事でもあったんです。今まで働いてきた事業所によってそれはまちまちでした(グループホームでは料理や庭の手入れ、家庭菜園等がそうだったし、老健では医療的やリハビリ的に分からない事をさまざまなスタッフから聞いてそれを覚えていく、などもそうかな?後これはどこでも共通だけど機械に強い、と言う事も)。

 今は「音楽と人との関係性」と言うテーマを持って、それを極めていきたいという欲求が自分にとって仕事に対するモチベーションの大きな要素になっています。最もこれは財津先生、と言う鹿児島の音楽界の巨人が近くにいてくれたり、周りのスタッフの協力もあってのことですけどね。こういう他人に秀でた能力や興味があれば、それをドンドン伸ばしていこうとする本人の努力は必要なのかもしれませんね。

 あと話の中に出ていた「『やりがい』と言う妄想」に我々は囚われているのでは無いか、と言う話。確かにそれはあると思います。日本でこんな話が出てきたのは何時のことなんでしょうか?確かに戦国時代の主従関係でもあったかもしれませんが、大きくこんなことが言われ始めたのはどうもバブル崩壊後であるような気がします。賃金に見合った報酬が受けられない分を、やりがいという言葉でごまかしているのでは無いか...。

 うん、福祉関係にはよくある話ですよね。介護保険という従事者が救われないシステムが何とか動いているのもこれかな、と。で、そうじゃないだろ、適正な報酬をしっかり従事者に渡すような改正を、と言っているのがおいらなんですが。どうも厚労省は介護従事者すべてを「人の良いバカ扱い」しているようでね。非常に困ります。いるんだよ、おいらみたいなひねくれ者もさ。

 最も自分自身も「やりがい」に誤魔化されてきた面もあるし、今もひょっとしたら、と思う事もないわけじゃない。でもね、本当に自分だけの何かを掴んで、それをもちつつ進む人間は強いし、簡単にその意思はぶれないよ。 そういう芯を持てれば、どんな仕事も最終的には楽しくなるんじゃないのかな、と。

 ...もっと書けるんだろうけど、こんな感じですかね。そういうものも含めて「介護はアート」なんじゃないかな、って。能天気?いいじゃん。悲壮な状態じゃ何のために生きているのかすらわかんないもん。

 この哲学カフェ、ある意味ブレーンストーミングに近いし、こういうことを考えられる、と言う意味では良いサークルでは無いかな、と思っております。うちらのようになかなか外部との接点が限られた介護従事者などは、自分の考えに一本芯を通せる、と言う意味でも是非参加して欲しいな、と。

 ちなみにうちの嫁、「ふ〜ん、40過ぎのおっさんがこういう大学のサークルみたいなのに参加するのね〜」と呆れていたような風にも見えましたけどね。うん、又参加しますよ。

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posted by y-burn at 12:11| 鹿児島 🌁| Comment(1) | TrackBack(1) | 講演会・研修 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月02日

もう田舎とか都会とかの価値観は過去のものになりつつあるんですが...。一部分かりたくない方もいるようです。

〜「 いなかパラダイスー辺境からの問いかけ」〜

「日本地域再生研究所」のサイトを紹介しました。

こんどご紹介するのは、表題のタイトルのブログです。
上記研究所を運営されているかたが管理しています。

http://ameblo.jp/osamuari/

 「地元の人たちに聞くと、その多くから「田舎には何もない。田舎は遅れている」という答えが返ってきます。しかし、それは前の時代の価値観で見た場合のことであって、今少しずつ現れようとしている「次の時代の価値観」から見れば、その田舎こそが「進んだ生き方を実践できるところ」になるのではないでしょうか。

 では、その新しい価値観とは何か?

 それは、自然とのつながりを回復し、自然からの恩恵を享受しながら、心身のバランスをうまくとり、なおかつ進んだ情報技術を駆使して世界とつながった生き方をするということです。

 もちろん、田舎には依然としてさまざまな問題があり、だれもがそこで快適な暮らしができる環境には、まだなっていません。それに、だれもがそうした生き方を望むわけではないでしょう。

 しかし、これまでの生き方(そして社会のあり方)に疑問を持ち、新しい生き方・あり方を模索している一部の人たち――特に一部の頭脳労働者――には、その気になりさえすれば、一足先にそうした新しい生き方を実践できる時代がすでに訪れています。

 このブログでは、長年にわたる「外地生活」を経て郷里に復帰した私の田舎におけるロハス的生き方とともに、外部世界と田舎を結んだ新しい形の地域活性化活動について、ときには写真やビデオを交えながらレポートしていきます。」
  そういえば、古瀬先生のブログからネタ拾うの初めてだよな・・・

 前に東京暮らしを自慢していたおかしなアイコンの人に「都会に出て来る価値のないものだけが田舎に残っている。田舎にいるのはカスだけだ、お前も含めて」とマジで言われましたが、そうじゃないことがこの記事でも良くわかります。単なる言葉遊びでこちらが勘違いして間違えたのを未だに完全勝利と勘違いしているようですけどね、@obugyoさん。最近のつぶやきがただのテレビの感想文だけとは...落ちましたね、あなたも、と言っておきましょう。

 馬鹿はほっといて。

 都会と田舎の暮らし、と言うのはこの間鹿児島哲学カフェでも少し話ししたんですが、人間というのは便利になることを望む動物で、便利になって楽をする、また便利なところに住むことで優越感にも浸れる(人として最低だけどな、それは)訳です。

 しかし、ちょっと待て、と言いたい。

 人、と言うのは便利になることによって、色んなものを失っていくのではなかろうか、と言う事を感じてやまないんです。前このブログでも同じ事書いてますけどね。自分の小さい頃なら出来ていた、自然を使った技術が同じ歳の子供に出来なかったりする(それが嫌だから自分の子供にはそういった自然を使う技術はしっかり教えてますが)。ある料亭の親父さんが言っていた「確かにガスや電気は便利で、炭火は不便だけど、俺はこれが良いと思っているからやっている。人は便利になることで、何か大事なものをどんどん失っている気がするんだ」と言う言葉を思い出します。

 もっと言うのなら、情報の個別化、と言う事、具体的にはネットの一般化によって、都会と田舎の格差というものはどんどん小さくなっている、と感じます。実際、ネットを巧く活用さえすれば殆ど差は無いという認識です。勿論逢って話をするのは重要ですけどね。

 自分自身、もうこの田舎(歩いてすぐのとこでコンビニ二軒に増えそうなところが田舎ですか?と言われると返答に困るな、実際は)で生きていることがロハスみたいなもんだから、逆にロハスがお洒落だ、とか訳の分からんことは言いたくもないし好きじゃないけど、「自然と生活との共生」は大事にしていきたい。ただし、気合いもない人間が簡単にできるほどそれは甘くもないことも良くわかってますしね。

 来月頭にはキャベツや白菜を植えよう。庭には来年使う分のニンニクを植えよう。で、運動会ラッシュが終わったら取りかかろうかな・・・このくらいですけどね、具体的には。でもそれでも良いと思うんだよ。

 都会と田舎、で区別する価値観から逸脱しないともう駄目でしょ、正直言って。どんな場所でも一通りの仕事がこなせる。で、好きな場所が何処なのかで選ぶ。これで良いんだよね。

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posted by y-burn at 19:13| 鹿児島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 田舎暮らし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月29日

「もんじゅ」は、これからの「閉じた」福祉を変えるかもしれない...

で、翌日。

もんじゅ鹿児島のミーティングが天文館で行われました。実は自分自身、このもんじゅ、と言うものについては、あえて殆ど情報を得ないままの参加にしました。だって断片的な情報が入ると逆にすっと入っていかないもんね。

「もんじゅとはなんぞや?」と思われる方はこちらのサイトを参考に。

介護現場をキラキラさせよう!-NPO もんじゅ TOP-:

 このNPOについての詳細は「哲学カフェ」でお世話になっている能勢君が自分のブログで語れるだけ全部語ってくれていますので、そちらを見ていただければ...って、こればっかしかい。

・能瀬のポートフォリオ「もんじゅ説明会に参加してきた

 流石能勢君だ。おいらがグダグダ文章書き散らかすより分かりやすい。

 で、こっからはこの「もんじゅ」と言うシステムについて自分が感じたことを。

1.もんじゅのシステムとして、施設や事業所で問題になったことを話し合い、気づきを得ること。この「気づき」と言うものが実際問題、介護に限らずどの業種でも重要で、それを「時間がないから、人がいないから」で流してしまって、あとになって大騒ぎ、と言う事も実際ある。またそう言った気づきをデータベース化していくことは、最終的にはこの業界にとって相当大きな武器になる、と考えます。なにしろ医療と違い、福祉という分野はなかなか施設や事業所毎の情報(個人情報ではなく、困り毎やfaqのようなもの)をデータベース化できてないんですよね。法的な解釈、と言う意味ではmasaさんとこがありますけど、それ以外のデータとしてはもんじゅは役に立ちそう。今はまだ生まれてすぐの赤ん坊かもしれないけど、これが10年20年経ったら凄い事になりそうだし、それを考えるとワクワクしませんか?

2.もんじゅのセッションについては、明らかに「ケアプランの一連の流れ」であること。でもこれは悪い事ではなく、この流れを熟知すれば他の産業や仕事の分野でも応用は利く(いや、本当は逆輸入なのかな?でも自作PC作るときにはわざとケアプラン的な思考で部品集めましたが)と思っています。我々のようにケアプランに慣れ親しんでいる介護従事者にとっては、このような新しい試みにいつもと近い業務的考え方が応用出来るのは非常に分かりやすくて良いのかな、と。

3.他の都道府県は良くわかりませんが、特に鹿児島の場合、比較的「施設・事業所の中だけで人間関係が成立してしまう。上下関係はしっかりしすぎていて、学習目的であろうが仕事場の話をするのは良くない」という事が目につきます。具体的に言うと、以前自分が相談員として参加した研修で軽い失敗談を話ししたら、あとで同じ事業所から参加していた別の相談員が上司に話して怒られた、とか。うん、要は鹿児島県内の福祉事業所については「少なくとも現場レベルでは他の事業所との交流は見られない」と言いきっても過言じゃない状況なんです。いや、最も私的なレベルでは(専門学校の同窓生とか)分からないよ。でもこの業界に入ってずっとこれは感じていたし、それを個人的には打破したいな、と言うのがそもそものネットに繋いだ理由でもあるし(その流れもあり、自分のSNSは同業者のみにとどまってないんですよね)。
 もんじゅはそういった「施設・事業所での閉塞感」を打破するツール、と言ったら失礼なのかな?それにも使えそうです。やはりね、「同じ志を持っている仲間がいる」と言うのは強いから。

4.で、3.とは逆にも考えるんですよ。鹿児島でもんじゅを根付かせる際に何らかの障害は起こらないのだろうか?と。
 阿久根の例でもおいらは体感しているんだけど、何か新しいことをしようとすると、絶対に障害は出て来る。それまでの変化を希望しない「仕事なんて流れに身を任せればいいのよ」と言いきる人々によってね。これからこのもんじゅを鹿児島に根付かせるには、今回の説明会参加者の一人一人の行動によるんでしょうね。我々、ある意味大きな責務を担うことにも繋がるのかもしれません。でも、自分としてはもんじゅの活動には全面的に賛同するし、支援もしていきたいと思う。
 
 これまで20年近くこの業界に足を突っ込んで、色んな人を見てきた。燃え尽きたり、この世界から離れたくないのに離れざるを得なかったり、井の中の蛙になっているのに気づいて無かったり、とまぁ色んな職員がいるわけだけど、そう言う方々に少しでも光を当てて、お互いに支えていくことも必要ではないのかな、と。また、キャリア的にもそれが出来るだけの時間を自分自身過ごしているわけだから...。

 で、今度は1月ぐらいにもんじゅミーティング鹿児島を行うことになりそうです。自分の事業所からも参加を募りたいけど、するかなぁ・・・

 あともう一つ考えたことがあるんだけど、良いかな?スケジュールを合わせる事が難しいけれど、せっかくなので「財津先生の音楽療法見学ツアー」をもんじゅの前日に絡める(先生土曜の午後はお休みですので)のはどうだろうか...?ただ問題はうちの事務長が素直に納得するかどうかだが、先生の一声には忠実なのでうまく行くかもしれんし。

 また、次回のミーティングには参加させて貰いますのでよろしくお願いします。あとryyohrくん、困ったら声かけて。

 で、実はこの日、もう一つの出会いがあって....なんだけど、それはまた次の記事で。

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posted by y-burn at 20:15| 鹿児島 ☔| Comment(0) | TrackBack(2) | 講演会・研修 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

久しぶりの天文館で...

 今回のもんじゅ鹿児島前夜祭の話は、以下のブログでも取り上げられている(と言うより、書き始めるの遅いよ俺)ので、この辺りの話はリンク先を読んでね。

・古瀬 徹・鹿児島古稀日記「A0449 財津幹三郎・飯塚裕久・藤田英明氏らが集う夜」
・古瀬 徹・70歳の音楽「M0520 天文館の夜は更けて」
・最新福祉脳!?夢想転生:「鹿児島もんじゅ 前夜〜準備」
・特養のケアマネの施設介護ブログ。〜It's my job to keep care professional〜「鹿児島もんじゅ始動!(裏)」

 最初、メンバーの中に財津先生は入ってなかったのに、何故?と思われた方もいらっしゃるだろうので、説明。 

 みんなが最初の飲み屋に集まる数時間前の出来事。ちょうど財津先生の音楽レクがあり、機材の片付け(司会だけじゃなくて、そう言うのも私の仕事なんです、はい)後に少し話をしたのがきっかけでした。

「今日は古瀬先生や福祉の仲間と飲み会が天文館であるんですよ」

「そうですか...じゃ、そこにお邪魔してもいいかな?古瀬先生とも話ししたいこともあるし」

 ...いや、ビックリですよ。普段私的に飲み、とか行くこと無いんですから。とりあえず現地連絡することにして、業務に戻りましたが。

 あと、少し嬉しかったのは飲みの席でも何回か話ししたんだけど、財津先生の音楽レクには高齢者福祉の考え方として役に立つことも結構入っているのでそう言う意味でも刺激になるのかな、と思いつつ。

 結果的にはやはり凄かった。結構今回の鹿児島もんじゅのメンバーにはジャンル関わらず音楽好きが多いが故に、先生が質問攻めに遭ってたのは面白かったですね。特にryyohrさん、君だ。

 で、問題は二次会ですよ。 

 「天文館の知り合いの店にもう一年以上行ってないので」とおっしゃっていたら、まさか加藤さんのお店でしたか...。

シャンソニエ ソワレドパリ Soiree de paris

 加藤さんは、それこそ結婚前だから8〜9年前かな、良く自分の職場に財津先生と一緒に来られて、シャンソンや歌謡曲をボランティアで歌われておられた方で、自分自身も本当に久しぶりの再会と相成ったわけ。いや〜、以前と変わらないわ、あの美しい歌声は。

 あと鹿児島のCCR親父バンドで有名な松村さんやryyohrさんの歌やギターが聴けたり、と。結構凄い夜になった気がします。

 今回の飲み会に参加した皆様、本当に熱い夜をありがとう、と言いたいですね。特に財津先生、いつもは短い時間でしか話できてませんでしたが、今回ゆっくり話を聞けて本当に良かったです。

 で、その中で先生に言われたことでここまで残っている言葉がいくつかあって...それを紹介して今回の記事のまとめにしておきましょう。ちなみに財津先生の音楽療法に対する考え方については、こちらのPDFファイルを読んでみてください。

実践 音楽療法.pdf

「音楽療法は音楽を演奏する側の力量もあるけれど、それを進める司会者の力量もある。曲の背景が分かっていない状態では療法を進めることも出来ない」
「後進に受け継がないと行けないこの音楽療法を出来る人がいないかなぁ・・・あなたの奥さん(確かにピアノの先生ですが)辺りが受け継いでくれれば良いんだけど・・・」(ちなみに翌日これを嫁に伝えたところ、「私に?出来るかなぁ?」とまんざらでもない返答が...)

・・・で、翌日の「もんじゅ鹿児島」本番に続くわけですな。


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posted by y-burn at 16:48| 鹿児島 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日々の仕事のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

さて、再開です。

 しばらく休んでましたが、そろそろ復活。

ここ何ヶ月かの社会の動きは追々話すとして、実はネットに対して色々考えていたんだよね。

現在twitterとFacebook、mixiに関わっていて、更に最近Google+にも手を出していて。

ニュース的なものはFacebookで事足りるのかな?とも思っていたのですが....

でもやっぱしこっちも大事ではあるしね。

ただ、嫌なのはブログの言動で揚げ足取りをしようと構えている輩が存在する、と言う事。最もそれについても吹っ切れてます。

「人を馬鹿にしないと己の存在意義がない輩ども」

こういうことでしょうね。

 以前にもここで紹介した金日成アイコンの人は、あれからどんどん成長するかと思いきやただのテレビ番組の感想しかtweetしないただの中年親父になってるからな。年齢は近いとは言え、ああはなりたくないな。ただの言葉の見間違いを鬼の首を取ったように喜ぶ幼児性はおいらに対しての批判をする連中にとっての共通項だとも思う。

さて、再開です。


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posted by y-burn at 15:35| 鹿児島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

こういうことは昔からあって、我々はそれに騙されていた、と言う認識でよろしいですか?

〜九電やらせメール 薩摩川内市と鹿児島県に謝罪〜

 玄海原発(佐賀県)の県民説明番組をめぐる「やらせメール」問題で、九州電力は15日、薩摩川内市など原発立地自治体に副社長を送り、調査結果を説明、「迷惑をかけ申し訳ない。失った信頼を取り戻すため全力を挙げたい」などと謝罪した。

 同市には貫正義副社長が訪れた。段上守元副社長=6月末で退任=ら上層部の指示でやらせが組織的に行われ、計141人が発電再開の賛成意見を番組に投稿した経緯を盛った報告書を手渡し、再発防止策を説明。川内原発3号機増設計画での第1次公開ヒアリング(2010年)などで動員がなかったかについて、「調査し報告する」とした。

 これに対し、岩切秀雄市長は「このような事態になったのは甚だ遺憾。言語道断で国民の信頼を大きく失った」とし、信頼回復に向けた取り組みを求める真部利応社長あての要請書を手渡した。
 言語道断、と言うか、万死に値する、と言うか・・・この事件で九州電力自体が信用出来なくなりましたね。

 九電がどうしてこういうことを、しかも鹿児島の子会社を使ってでもやらかしたか、と言うのは説明しているマスコミも少ないのでここで言いますが、こういうことなんです。

川内原発の安全性は? 地震対策、九電に聞く

 東日本大震災により、福島第一原子力発電所で爆発や火災が相次いでいる。世界最大級159万キロワットの3号機増設計画を進める九州電力川内原発(薩摩川内市)の安全対策は十分なのか。九州電力に説明を求めた。

 ――事故が相次いだ福島第一原発と川内原発の違いは。

 「原子炉の仕組みが違う。福島第一は、原子炉の中で水を沸騰させて蒸気を発生させる沸騰水型炉(BWR)。川内原発は、原子炉内でできた熱水を蒸気発生器に送り、別の水を蒸発させて発電タービンを回す加圧水型炉(PWR)。どちらが安全上優れているかは言い難い」

 ――福島第一では、緊急炉心冷却システム(ECCS)が機能せず、原子炉を冷やすことができなかった。川内原発の冷却システムは。

 「川内原発の冷却システムは蓄圧、高圧、低圧の3系統計8台が用意されている。原子炉が止まって発電できなくなった場合、外部の火力発電所やディーゼルの非常用発電機でECCSに電力を供給する。このほか、原子炉外の給水ポンプで冷却水を送ることになっている」

 「加圧水型炉は沸騰水型炉と違い、蒸気にするのは原子炉内とは別の水。そのため、蒸気発生器の蒸気を大気中に放出することで安全に熱を逃がすことができる。こうした安全対策を組み合わせることで、原子炉の空だきを防ぐ仕組みだ。3号機も改良型の加圧水型炉になる」

 ――川内原発の地震対策はどうなっているのか。

 「川内原発の周りにも複数の活断層があり、最大でマグニチュード7.3の地震が想定される。だが、川内原発は固い地盤の上に建設されており、原子炉など重要施設は一般建築物の3倍の基準で建てられている。地震対策ではガル(加速度)という単位を使うが、川内原発は540ガルを最低ラインに設計されており、震度5弱相当の160ガルで自動停止する仕組みだ。1997年の県北西部地震(マグニチュード6.2、震度6弱)では、川内原発で68ガルを観測したが、異常はなかった」

 ――地震に伴う津波対策は十分なのか。

 「津波は最大3.7メートルを想定してきた。原子炉は標高13メートルの高台に建設されている」
 早い話、九電は今回の震災とか抜きで川内原発に世界最大級の出力がある160万kwのユニットを作ろうとしている訳です。そこに関わるのは九電職員だけでなく、子会社、地元の政治家や役人、近隣住民・・・考えるとそこで動く資源や金は膨大です。もう建設しようとしていたのに震災後の不手際による原発バッシングで計画が反故になるのを避けたい、と言う思いが九電のお偉いさんの中にあったのでは、と容易に考えられますね。簡単じゃん、飯の種が無くなるんだぜ?しかもそれにともなう金の動きで協力者に迷惑をかけることにもなるんだしね。

 唐津と違い、川内は目立った大きな動きは現在ありませんが、周囲の市町村は阿久根を除いて整備後稼働反対、原子炉増設反対のスタンスを取りつつあります(阿久根?原発大好き伊藤知事の腰巾着が市長なので、動かんと思う。これも竹原さんを独裁者呼ばわりした市民への天罰だろうね)。

 福島第一の被害もどんどん広がっていることが報道されている現在、九電のやるべき事はやらせメールを書かせることではない。不安になっている唐津や川内の住人に十分な説明。納得させられない場合は即稼働廃止し、バイオマス系や地熱エネルギーへの速やかな移行を考えるべきでした。今からでもその方向に持って行くべきではないか、と思います。

 あと思ったこと。今回の奴は正直バレバレな情報操作でしたが、この手の情報操作、と言うものは結構あちらこちらでやられているものなのではないか、と。世界から批判を浴びているジンバブエに対するイギリス系マスコミの偏向報道と同じ事をやっている南日本新聞なんて最たるもので、彼らは竹原さん憎しと言う感情だけで記事を作っていた。あれは偏向報道とは言わないのか?またやっかいなことにそれを信じ込んで「竹原は悪」等と決めつける爛れた正義感で竹原派と言われるネットユーザー攻撃する輩どももいるしね。あ、彼らはtwitterにいる竹原元市長に直接聞きはしないんです。竹原派だ、と言われている我々しか攻撃しない。

 何故ならそんな度胸も責任感も罪悪感もないから。要は「ヘタレ以下」だってこと。

 一般市民もこう言った情報操作等に騙されない様な知識を身につけ、また実践することが必要な時代になるのかもしれませんね。

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posted by y-burn at 14:47| 鹿児島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件・・・その後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月30日

落書きだらけの岸壁は、「我は海の子」と言う歌に対しても失礼

昨日、Facebookとtwitterで二回分の音楽レクの曲紹介でこういうことを書いたら結構食いついてくる方が多くて・・・

 この曲についての話だったんですけどね。



imaseachild.jpg

 「我は海の子の起源は鹿児島」説は、実際に鹿児島国際大学の古瀬先生が調べてみたら、諸説あるようですが、有力な説らしいです。ただ、どこかで勘違いしていたのかな。与次郎ではなく祇園之洲だったようですね。実はこの話自体は音楽レクの財津先生から話を聞いたものです。

 さて、本題。

 そう言う綺麗な海岸を有していた鹿児島の錦江湾も今や昔で、鹿児島市の錦江湾沿いは殆どが埋め立てられ、セメントで固められているのが実情。しかも、このブログでも何度か紹介しているようにそのセメントの岸壁(特に与次郎)には醜悪な落書きが書かれているというね。しっかりシーラー塗っているわけでもないのでみるみるうちに風化し、更に状況は悪くなってます。阿久根の岸壁を貶す前にこの与次郎の現状に対して何も思わないのであれば、鈍感、としか言いようがありません。

 観光で町興しと言うのであれば、ここに手を付けない訳にはいかないよね。錦江湾を見に来たのに待っていたのが落書きでした、じゃ洒落にも何にもならない。何をどう書くか、は次の話としても、少なくともあの落書きは消さないといけない。そうしないと、我は海の子、で歌われた過去の錦江湾に失礼じゃないのかな?そう思います。

 うちのブログを見ている偉い人たち、何とかなりませんか?

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posted by y-burn at 13:17| 鹿児島 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | 生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月24日

遅ればせながら、「笑福会presents masaさんと語ろう(飲もう)会」の報告。

 最近はPCを子供らがゲームのために独占してしまうことが多くて...。

 もとい、一昨日鹿児島の老施協研修のために来鹿されていた、masaさんと逢う機会が出来まして。うちの施設は老施協との関わりがないので研修には参加できませんでしたが、鹿児島笑福会のsandanshikomiさんryyohrさん、そしてryyohrさんの施設スタッフは参加しており、それに引き続き、と言う形にはなった訳ですね。でもっておいらと古瀬先生、某施設のMさんが乱入したという。

 気づいているかなぁ?実はmasaさんについてはこのブログがまだSEASON1だった頃からリンクはしており、施設内研修のネタ作りに使っていましたが、本は読んでないし、研修にも参加していないと言うことで、部外者に近いのか、と思いましたが。

 実はそんなこともなく、すぐに打ち解けられましたね。真面目な介護の話だけになるのでは、とか思ってたら逆にふざけた話になってみたり。

 話した内容はsandanshikomiさんやryyohrさんが詳しく自らのブログで解説しているので、そちらを参考にして欲しいけど、この飲み会の中で個人的に考えたことをいくつか。

 ・まず、介護の世界でどんどん情報の共有や人と人との繋がりが大きくなっていること。今回のこの企画もryyohrさんが老施協の研修でmasaさんが来られる、と言う話を聞き、速攻でメールして成立したものです。数十年前なら全く考えられない事じゃないのかな?それ以外にも、笑福会やもんじゅ、なんて介護従事者のコミュニティもネットで広がっていき、今やFacebookやtwitterで毎日交流する姿も見られている。ネットというツールを有効に使うことがどれだけ人と人との絆を深めていくのか、と言う事ですよね。これがさらなる大きなうねりになり、最終的には介護の世界を大きく変える力になるのでは?と夢想してみたりもしてます。

 ただ自分自身は少し考え方が違うところもあり、介護業界だけでなく、様々な業界の人とも交流したい、と言う希望もあります。嫌ですもん、「介護業界の常識が世間の非常識」とかいわれるのも。と言う事で現在自分のFacebookは介護従事者以外の業種の方が三倍以上いると言うことになっています。

 ・どんな業界でも、はっきりものが言える人間がいないとその業界は衰退するということ。まさしくmasaさんはそう言う方ですが、それなりに一部では批判も受けていらっしゃるようです。最もこれは自分の阿久根関連と同じで、「言いたい奴には言わせとけばいい。表向きには言えないんだからな」とmasaさんも考えているようです。しっかり自分の意見を持ち、発信する、と言うのは意外と勇気もいるし、気合いもないと続きませんからね。ふらふら色んな事を書き殴るスタンスのおいらよりもずっと凄い事をされている、とは常々思ってます。

 ...ま、こんな感じ。ryyohrさんが中継もしてましたが、あれで思ったのは「30代〜70代のおっさん達の飲み会見て何がおもろいのだ?」と。あれ言い出したのはおいらではないんだけど、つくづく思った。次回は女性も込みで、ってどうだ?あ、それ以前に鹿児島笑福会に女性メンバー加入させなきゃならんな。それと9月のもんじゅに12月の忘年会。そのうちどちらかは伊集院の某焼肉屋でやりたいし・・・。

 もっとそれ以前にmasaさんのこの本を読まんといかん↓
48769a16.jpg
おいらこれまだ読んでないもんなぁ・・・

最後に。masaさん、古瀬先生、ryyohrさん、sandanshikomiさん、M事務長さん、某相談員さん、本当にありがとうございました。最近色々あって少し心理的に落ち気味でしたが、皆さんに元気貰った気がします。

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posted by y-burn at 23:35| 鹿児島 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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